国旗と国歌
『日の丸』、『君が代』を国旗・国歌とする法案が成立した。そのことに対する国民の思いは様々である。ある人々は戦前の軍国主義の過ちを二度と繰り返してはならないと反対し、またある人々はスポーツなどの祭典では国旗、国歌が公式に使用され、国際的にも認知されているのに反対すること事体不自然であると考えている。
映画『カサブランカ』の中で、ハンフリー・ボガードが扮する主人公の酒場で、ドイツ占領下のフランス人達が、ドイツ将校達の勝ち誇ったような国歌の合唱に対抗し、フランス国歌『ラ・マルセイユ』で対抗する場面がある。結果は歴然で、圧倒的多数のフランス人の合唱が勝利し、ドイツ将校達は沈黙してしまう。私はこの場面を忘れることができない。
私達が、義務を果たし、国家は権利の擁護をはじめ様々な保証を国民に約束する。いかな国家・国旗反対論者と謂えども、そのルールに従い納税の義務を果たし、義務教育を受け、健康保険や老齢年金の恩恵を受けてているはずである。従って、国家そのものを否定する無政府主義者ではないはずである。グローバル化が如何に進もうと、国民が国への帰属意識を失うことはない。国旗は国のシンボルであり、国歌は国民の目指す理想や日本および日本人のアイデンティティを示すものでなければならないと考える。フランスでは『ラ・マルセイユ』の好戦的な部分をもっと現代世界に合致するような歌詞に変えようとする運動も始まっていると聞く。
『日の丸』は古から日の出づる国の象徴として『日=太陽』をモチーフにした完成されたデザインであり、地理的条件や『日本』の国名とも合致したものである。新しいデザインで『日の丸』に勝るものが出来るとは考え難い。
『君が代』は当初、歴史家などの説では『君』を第二人称のYOUであると聞いていた。これならば隣人愛や博愛主義と受け取れなくもないが、政府、特に首相見解では『国民の象徴である天皇を指し、天皇の御代とは主権者である国民の治める日本国を指す。』ことになってしまった。このままでは、国民が国歌に親しむことも出来なければ、戦前の軍国主義の復活を危惧する人々の理解を得ることは出来ない。国歌は再生日本を象徴するものとして、時間を掛けても作り直すことが必要である。
わが国は、既に戦前のような立憲君主制の国家ではなく、象徴天皇制をとってはいるが、主権在民の民主主義国家である。今、敢て『君が代』に固執することは、自分達の無能や無責任を天皇の名を騙り、国民を欺いてきた戦前の政治家や財界人と体質的に変わっていないことを証明することに他ならない。森氏をはじめとする与党の政治家達は、慣習を追認するだけのことと考えているのだろうが、この本質的な誤りには気付いていない。日本人が国を思う時、国民の目を全て天皇に向けさせようとすることは可笑しなことである。国を良くするも悪くするも、私たち国民であり、私たちが選んだ政治家なのである。
また、国旗・国歌が自分達の主義主張に反し、国家に強要されることを好まぬと言う理由だけで反対を唱え、板挟みとなられた校長を自殺に追い込む人々が存在することは許し難いことである。二度とあの過ちを繰返さないという悲願は一部の政治家や国旗・国歌がどうあろうと不変の国民合意である。不毛な反対論に終始することなく、学校教育や社会教育の場で積極的な国民合意形成に勤めて欲しいものである。また、現政権がダメであれば民主的な方法で政権を変えれば良いことである。。