茶番劇の国会
わが国の国会では、与党から提出される国家予算案・法律案が一言一句の訂正もなしに国会を通過するのが通例で、そのこと自体が与党にとっては、勲章のように自慢の種らしい。しかし、予算案や法案自体が内閣や議員からの提案ではなく、官僚の作文した草案そのものなのだから自慢にもならない。さらに、政府委員制度が廃止されすべての答弁が閣僚によって為されることになった現在では、官僚のあやつり人形ぶりを国会で実演することになってしまった。
せっかく国会で議論されるのなら、野党議員だろうが国民の代表である。それらの議員の意見がもっと反映されても良いのではなかろうか。そうでなければ国会は機能しない。私たちには原案に固執する与党の思惑が全く理解できない。大同小異という言葉が有るが、双方の考え方で概ね同じならばその部分では協力し合えるし、違う部分を集中的に議論すれば、提案者よりも他の意見の方がしっくりといく場合もある。そういう前向きな考え方は出来ないのだろうか。もしかすると、部分的にでも修正することになった場合、自分たちでは収拾が付かなくなることを恐れてのことなのかと疑わざるを得ない。
第143回国会(臨時)における金融再生法案の詰めの際、与野党担当委員が互いに税務会計の知識を競い合う姿は、政治家の仕事としてはお粗末である。国民の意見を直接聞き、専門知識は有能な専門家から引き出し、もっと高所から専門家の提案する政策の妥当性や国民意識との整合性を論議、チェックするのでなければ、何のための代表か知れたものではない。また、相手側の法案を丸飲みしたにも拘わらず、自分のリーダーシップを主張して恥の上塗りをする無能無策の政治家にも呆れてしまう。
民主主義の原則は全ての国民が平等に政治に参加し、国民の総意を国政に反映し、より良い社会を目指すことにある。しかし、期待できない候補者しか舞台に登場しないのでは投票意欲が薄れるのは当然である。まして、比例代表制を併用した現制度では顔の見えない議員があまりにも多すぎる。当選してすぐに政党を鞍替えするものまでいて始末におえない。顔の見えない政治家では国会で何をしようと存在すらわからない。その居るか居ないかわからない人々が採決のときだけは立派に役割を果たし、いまいましい議案をあっさり通過させてしまうのである。大体において国会議員の数が人口に比して多過ぎる。行財政改革の手始めは現在の議員定数を削減して二百五十名程度にすることである。