基本的人権と協調社会における秩序
《現在の憲法では、》
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。自由及び権利は、国民の不断の努力によつて保持し、濫用の禁止と公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。すべて国民は、個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、最大に尊重される。また、すべて国民は、法の下に平等であつて、差別されないことが明確に謳われている。しかし、
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- 『自由及び権利の濫用の禁止』
- 『公共の福祉のために一定の責任を負う』
- 『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については
公共の福祉に反しない限り、最大に尊重される』 - 『自分以外の他の個人の尊重』
- 『法の下に・・・』
という部分が軽視され、自己の権利ばかりを主張する自己中心主義が横行し社会からモラルを追放してしまった。
この最大の原因は、日本の封建的な家族制度の崩壊に加え、高度成長社会による人口の都市集中と核家族化が地域コミュニティ崩壊を促し、人間関係の希薄化をもたらした結果であると考えられるが、従来の教育や社会システムではその悪循環に歯止めをかけることが出来なかった。
現在の日本はあらゆる面で腐っている。官僚や政財界のみでなく、医者、教師、警察官でさえ信用ならない。一般の人々の行動からもモラルは消え、迷惑行為の苦情にごろつきまがいの脅し文句が返ってくる。自分の子供が他人に迷惑をかけても、注意するどころか他人を挑むように睨みつける親もいる。人に注意されて謙虚になる人が圧倒的に少なくなってしまった。
子供に道徳を説いても、それを守る大人がいないのだから、子供達は何を信用すれば良いか解る訳もない。父親には威厳もなく、家庭を顧みない会社人間である。母はうるさいだけで必要なことは何も教えない。家族間の信頼も消えた今、子供にとっては家庭さえも安住できる場所ではなくなってしまった。これは教育論以前の社会問題である。
同時に人権擁護の立場から犯罪者側の人権が過大に擁護され、被害を受けた人の人権が軽視されている。戦前戦後の混乱期に多発した冤罪事件のような誤った事実認識のまま無罪の人間に罰則を加えるようなことがないように慎重になるあまり、本来の法治が機能していないのではなかろうか。
『基本的人権の享受と健全なる自己確立』
改正では『基本的人権の享受と健全なる自己確立』の原則を明確にすることが必要である。個人や企業の活動は全く自由であり、一生懸命努力すればその努力は正当に報われる。その代わり、各個人や企業に課せられる社会的責任は重大である。無知や怠慢は犯罪や破産、倒産につながり、失敗しても政府や社会が救済の手を差し延べることはない。何をしても良いが成功や失敗は自分の責任である。また、為した行為が他に害を及ぼしたり他の権利を侵した場合は、その行為は『自由社会の根底を揺るがす犯罪行為』と規定し、その内容や程度により『相当の償い』をしなければならないことを明確にすべきである。
- その他、新たに以下の項目を追加した。
- 『児童の健全なる成長』、『人格権』、『環境権』、『権利の制限』
- 『災害、犯罪等の脅威からの保護と被害者の救済』
- 『定住外国人および日本在住外国人の地位』
法律はそれをつくる立場と適用される立場とでは当然のごとく解釈が異なってくる。細部にわたる規制は『しても良いことと、悪いこと』の範囲を不明確にし、かえって悪どい行為を野放しにすることになる。現状のような複雑な法体系は全て廃止し、自由社会に対応した社会全般にわたる原則を明確にして法の精神に則り運用の方法を確立することが必要である。
また、国の防衛やエネルギー政策、環境政策等は、国や地方政府の重要課題である。重要課題であればこそ、国民に問い、国民のコンセンサス作りから始め、国民の総意として行われる政策でなければならない。確かに、騒音や危険性を伴う可能性のある施設は、必要な施設ではあっても、自分の町や住まいの近くには設けてほしくないと言うのが人情である。しかし、ほとんどの問題は運営方法や技術的に解決できる問題でもある。そして国や地域のために必要なもので正当な手続きを踏んで行われる計画であれば、決して誰も反対をすること出来ない。全ての失敗は政策決定のプロセスが不明確なために起きるものである。
私たちは国や地域を形成する一員である。私たちが権利を主張できるのはそれを保証する国や地方政府の保護があるからである。もしその保護が得られなければ無政府状態であり、権利を主張するどころか生活の基盤さえ犯されかねない。個人の利益や権利ばかりを主張して、公共の目的を阻害すれば、ひいては自分達の不利益につながることを私たちは十分に承知しているはずである。