モラルの消失した日本社会
現在の日本はあらゆる面で腐っている。官僚や政財界のみでなく、医者、教師、警察官でさえ信用ならない。マスコミは、冷めた知識人や評論家を登場させ、傍観者のごとく危機感を煽るだけで、人々に光明を示すどころか諦観を植え付けるだけである。一般の人々の行動からもモラルは消え、迷惑行為の苦情にごろつきまがいの脅し文句が返ってくる。自分の子供が他人に迷惑をかけても、注意するどころか他人を挑むように睨みつける親もいる。人に注意されて謙虚になる人が圧倒的に少なくなってしまった。一寸の口出しが命取りになる危険さえあるのである。
子供に道徳を説いても、それを守る大人がいないのだから、子供達は何を信用すれば良いか解る訳もない。父親には威厳もなく、家庭を顧みない会社人間である。母はうるさいだけで必要なことは何も教えない。家族間の信頼も消えた今、子供にとっては家庭さえも安住できる場所ではなくなってしまった。これは教育論以前の社会問題であり、思い上った男中心社会が造り出した歪みである。
子供社会も戦々恐々
世の中を見渡しても、いい加減な大人しかおらず、悪いことをしても罪の意識もなく平然としており、大した罰を受けることもない。守られるべきモラルもなく、まるで示しのつかない世の中である。校内暴力やいじめに合っても誰も助けにならない。友達だって、弱味を見せたら、何時いじめっ子に変身するか判ったものではない。子供にとっては、周り中、敵だらけの世の中なのではなかろうか? 子供社会ではいじめや脅しや喝上げが当り前のように横行している。ぼやぼやしているといつやられるか解らないのである。普通の子供達に自己防衛という発想が生まれ、ナイフで武装しようする考えが浮かぶのも当然のことではなかろうか?
刑法は罪刑法定主義で良いのか?
子供の犯罪ばかりでなく、大人の犯罪でも『ごめんなさい』をすれば罪を問われずに済んでしまうケースが目立ち、憤りを覚える毎日である。政治家や官僚、地方公務員、財界、特に一定以上の地位にある者の犯罪が目に余るのである。犯罪は、その動機と犯罪の内容で一律に考えるのではなく、その被害者が精神的であれ、金銭的であれ、身体的であれ、犯罪の被害をどのように被ったかを考察した上で刑罰をきめる仕方を考慮するべきではなかろうか? 例えば、老人のなけなしの生活資金や中小企業経営者の運転資金を詐欺で失い、その後の苦境に耐えられず、自殺をしてしまった場合、動機や犯罪の内容は殺人ではなくても同等の刑罰を科しても間違いではないと考えられる。
また、一定以上の地位にある者の犯罪は、当然、その地位を利用した犯罪であるため、動機はどうあれ、刑事訴追と同時に地位を剥奪し、重罰を科してしかるべきものである。さらに、時効期間を長くし、その地位にある期間中は時効を停止すべきである。
以上のような犯罪への厳然たる措置(『やり得、やられ損』をなくす。)と同時に社会全体のモラルを確立して犯罪が起こりにくくすることが必要であろう。法律で規制するのではなく、教育や社会運動を通してモラルと新たな社会ルールやマナーをつくり出さなければならない。家庭や近隣・友達・学校・会社での挨拶、自治会活動、満員電車でのマナー、交通マナー、生活廃棄物の処理、すべてにおいて自己の権利だけの主張に終わらず義務と責任を認識することである。また、それに反する者への対処方法も考えなくてはならない。マナーやルールを守らなければ住むことや仕事で稼ぐことも侭ならない社会、そのような社会を実現することである。